聖体「今、私と生きているイエス」

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 「人間は一本の葦である」で有名なパスカルが、「哲学者の神ではなく、生きた神〈アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神〉を信じる」と述べています。哲学者の神とは、天地万物の創造主、全知全能の神など、知識の中にある神です。これは冷たい神であり、私たちを救うことはできません。私たちが信じて従う神は、もっと身近な神です。おじいちゃんやおばあちゃんが信じた神、お父さんやお母さんが信じ従った神です。そして、私と共に生きて下さる神です。この神は私の先祖たちと共に暮らした神であり、私の家族の一員になっている神なのです。

 これが、神が人となって人間の世界に入られた『受肉』の意味です。サドカイ派の人がイエスに質問しました。「7人兄弟すべての男と結婚して妻になった女は、天国で誰の妻ですか?」これに対して「あなたたちは思い違いをしている」と指摘して、神は生きているのであり〈アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神〉である、と教えています。私たちは、しばしば理屈で神を考え、自分の考えに合わないことで苦しみ、理不尽に思える仕打ちに腹を立て、神を見捨てることさえあります。しかし、神は自分の理想の世界にいるのではなく、現実の生活や仕事の中におられます。一緒に「生きて」おられるのです。私たちは頭だけで神を考え、思い違いをして、勝手に神に怒ったり、失望したりしているのです。

 現実の苦しみや悲しみから逃避して、社会や人間関係から身を引いて、居心地のいい自分の世界に閉じこもって過ごすのは、一種の怠惰であり自己満足の信仰になります。祈りや信心の業が現実から逃げることであってはなりません。現実を生きる力を引き出すべきです。祈りには力があります。そのためにイエスは聖体の内に宿り、私たちに同伴されています。聖体拝領によってイエスと「交わり」、共に現実そのものを生きてくださいます。この世界は罪と闇に覆われています。だからこそイエス・キリストはそこにいるのです。罪をゆるし、闇を照らす光です。まず、私の罪をゆるし、心を照らし、強めてくださいます。その心で現実と向き合うのです。

 こうして、イエスの平和、主の平和が心に訪れます。この平和な心に神の力が宿ります。波立つと水面に映った月も歪みますが、水が静かだときれいに月が映るように、心に神の姿が映し出されます。これが信仰生活なのです。聖マザーテレサが全シスターに送った手紙があります。「まだ1対1で、二人だけでイエスに会ったことがない人がいるのではないか心配しています。あなたの心の内にいる、生きたイエスを本当に知っていますか?(…)理想ではなく、生きている、本当のイエスと毎日の出会いがありますか?決して離れてはなりません。」私たちは弱い一本の葦に過ぎませんが、イエスという根に支えられて決して折れないのです。■(文責:小寺神父)
*2021/06/06 キリスト聖体の大祝日ミサ説教より

この記事へのコメント

toma-san
2021年06月08日 15:59
考える葦、でしたね!
トマさんの羊
2021年06月08日 21:52
トマさん、6月9日、司祭叙階25周年・銀祝おめでとうございます!そこで、霊的花束を贈らせていただきます。
ロザリオ 3環
ミサ 3回 ❤
これっぽっちでは、とても恩返しにならないのですが、毎日お祈りしていますョ。どうぞお体を大切に、金祝めざしてがんばってください!これからも、私たちの霊魂をどうぞよろしく!

P.S. 6月9日は、私の大好きなリジューの聖テレジアが「憐れみ深い愛への奉献」をした記念日でもあるんですよ。二重に大切な日です!?

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