信徒の聖性=「世の光」になること

教会の歴史に「信徒の聖性」の道を切り開いた聖ホセマリアは、「喜びと真心をこめて人々に仕え」「信仰と愛の光で地上を照らす」ように教えました。これは、イエスが教えた「地の塩」「世の光」と同じです。「地」とは家庭や社会における人間関係のことであり、「世」とは人間のあらゆる活動、すなわち政治、経済、教育、文化、芸術、スポーツ、福祉、医療、娯楽などを指しています。自己愛を抑え、犠牲の精神をもって人々に仕えるなら、地の塩になり、社会をキリストの愛で味付けるでしょう。神との友情に支えられて、人々の幸せのために仕事を果たすなら、社会を明るくして、目の前の人を励ます光になれます。
修道者は世間を出るので、世に居ません。聖職者は社会活動に参加しないので、世の光になれません。これは信徒の使命なのです。家庭と社会で生活し働く信徒にしかできない福音宣教なのです。宣教と言っても、教えを説教するのではありません。キリストの教えを実践するのです。行いによってイエスの生きる姿が輝き出るのです。灯火は枡の下に隠さないで高い所に置くように、信徒は社会の諸活動の中で中心的な役割りを担うように努力すべきです。仕事の分野では、信頼され、尊敬されるように努力します。虚栄心や自己満足ではなく、よりよく人々と社会に仕えるためです。このようにして、「教会の光」ではなく「世の光」になれるのです。
それでは「目立つこと」を目指すのですか?いいえ。洗礼者ヨハネが言うように「私は小さくなり、隠れ、消えなければならない」のです。聖ホセマリアも「隠れること、消えること」が人生のモットーでした。これは「世の光」と矛盾しませんか?理解が難しいところです。自分が高く評価されることを望まない、という意味です。虚栄心を避けることです。個人の野望を遂げることではなく、神の望みが私において実現することを望むのです。私の力が世を照らすのではなく、キリストの愛が世を照らします。私が輝くのではなく、私の内にいるイエスが映し出されて輝くのです。
イエスが与えた新しい掟は「私が愛したように、互いに愛し合え」でした。互いに足を洗うように仕えることでした。ゆるすことでした。これを家庭で、会社で、お店で、学校で、病院で実践すれば家庭が変わり、社会が変わります。これこそ信徒に求められている働きです。隣人を自分のように愛するために、まず神を愛さなければなりません。まず、自分自身がイエスと親しく交わらなければなりません。最初にイエスがあなたを愛されたのです。まずイエスの愛に応えることです。これが信徒の唯一の聖性なのです。■(文責:小寺神父)
*2026/06/26 聖ホセマリア記念ミサ説教
この記事へのコメント
?ごめんなさい。
今日は、トマさんの健康とご意向のため、朝のミサで祈りましたよ。お体大切に頑張ってください!?