四旬節第2主日「犠牲」は「愛の業」と表裏一体

四旬節の犠牲の定番は、「好きなものを控える」です。晩酌をしない、コーヒーを飲まない、ケーキを食べない、などです。自分の欲望に体を支配させないため、これらの犠牲は有効です。「節制や慎み」という徳を育てます。同じ意味で、苦手なことに取り組むことも役に立ちます。たとえば、決めた時間に起きる、置きっぱなしにしないで直ぐに片付ける、時間を守る、などです。これらは犠牲の精神を養いますが、犠牲そのものというより修徳の戦いですから、一旦身に付いて習慣になると苦ではなくなります。このように、犠牲には人格を育てる側面がありますが、それだけでは神様との関係が見えて来ません。
犠牲とは、何よりも第一に神に捧げるものです。昔の人々は神殿の祭壇に捧げものをしていましたが、それが犠牲(いけにえ)でした。自分自身を捧げる代わりに、自分の大切な財産である家畜を捧げていたのです。自分にとって大切なものを神に捧げることが犠牲の本質です。神様を自分より大切にすることの表れです。しかし、時代とともに犠牲が形式的になり、犠牲を捧げる一方で人と対立して暴力を振るったり、下僕をいじめたり、悪口を言ったりしていました(イザヤ58章参照)。神より自分優先の生き方では、犠牲が神への捧げものになりません。まず、自分を神に従わせる覚悟と決心が欠かせません。
聖書は犠牲を「断食」という言葉で表しています。「私が望む断食とは、悪による束縛を断ち、虐げられた人を解放し、飢えた人にパンを与え、貧しい人を家に招き、裸の人に服を着せ、同胞の助けを惜しまないこと」(イザヤ58章参照)。この言葉は、イエスが教えた「小さい人にしたことは私にしたことである」を先取りしています。自分のための断食はダイエットの断食と同じです。もはや断食とは言えません。貧しい人に自分の食事を与える心で食事を断つなら、真の断食です。犠牲は神に捧げるものですが、現実的には隣人のために捧げることになります。隣人への愛が神への愛に重なります。「好きなものを控える」なら、それをウクライナの戦火で苦しむ人を考えて、苦しみに寄り添う心で捧げましょう。
聖ホセマリアは、「時として、笑顔が何よりの最高の犠牲になる」と教えました。隣人の欠点や弱さや身近な人の失敗など、批判したくなること、イラつくことに事欠きません。心の中で隣人への批判が出て来る時、笑顔で向き合うなら、大きな犠牲になります。それは同時に大きな兄弟愛の実践にもなるのです。■2023/03/03 グレースにて、オンライン説教より(小寺神父)
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