惜しみなく与え、惜しみなく奪う。神に感謝!

年度末を迎えました。この一年を振り返り、神に感謝を捧げましょう。何でも当たり前だと思う人は感謝できません。感謝できない人は、自分のことばかり考えて、人のことを思うことが出来ない人です。人生に当たり前は何一つありません。誰かがどこかで働いているのです。そのお蔭で今の自分があるのです。そこに思い至るなら、自ずと感謝するでしょう。その感謝は恩返しという形で実を結びます。感謝は、人のために努力する原動力でもあるのです。大阪で商売する人に古くから言い伝えられている教えがあります。それは「親、苦労する。子ども、楽する。孫、乞食する」です。貧しかった親は苦労して商売を大きくしますが、苦労知らずで豊かな暮らしが当たり前の子は、感謝を知らず育ち、財産を食い尽くして家を失い、最後は乞食になるという話。これは多くの実話から生まれた言葉です。
貧しい暮らし自体に感謝できませんが、それが努力の原動力になりました。貧しいことは不幸ではありません。また、病気や怪我も不幸ではありません。人間は満たされた生活より、むしろ苦しみの中で成長するからです。実際に怪我を経験した一流選手が更に成長して復帰するのを見たでしょう。また成功だけに感謝するのではありません。失敗も成功するための貴重な体験です。だから不幸ではありません。だから、豊かさだけでなく貧しさにも、健康だけでなく病気や怪我にも、成功だけでなくい失敗にも、すべてに感謝できるのです。一年後の大学受験を考えなら、どちらに転んでも感謝の心で現実と向き合えると思います。
旧約聖書のヨブ記に「神は惜しみなく与え、惜しみなく奪う。神に感謝」という言葉があります。よいものを受けたなら神に感謝するのは分かりますが、奪われて感謝するとは、どういうことでしょうか?ヨブ自身は「よいものを受けたなら、悪いものも受け取るべきではないか」と答えています。もう少し説明が必要です。「悪いもの」と自分が思っても、神が与えるものは「よいもの」であると信じているのです。「奪われた」と感じても、それは成長するために必要だから神が取り上げたと信じているのです。そして、実際にそうなります。
フランシスコ教皇は、日常的に「ありがとう」の言葉を頻繁に使うように勧めています。ちょっとした親切にも、微笑みにも、心遣いにも「ありがとう」が自然に口から出るように心がけましょう。難しい理屈より、日々の積み重ねです。いつも「神に感謝」が口ぐせに!■2023/03/10高二説教より(小寺神父)
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