四旬節第五主日 ―『悪いもの』にも感謝するー

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 年度末を迎えました。この一年を振り返り、神に感謝をささげましょう。さて、「ありがとう」の反対の言葉は何でしょうか?それは「当たり前」です。感謝することが思い浮かばないなら、当たり前だと思っているからです。たとえば病気を経験して、初めて健康の有難さがわかります。失敗して、初めて人の親切が身に沁みます。大災害を経験して、初めて何も起こらない当たり前の毎日こそが感謝なのだとわかります。でも、それで終わりません。キリスト教は「わるいもの」にも感謝するように教えます。どういう事でしょうか?

 今日のミサの福音(ヨハネ11章)に答えがあります。ラザロが病にかかり死にそうになります。姉妹のマルタはイエスに知らせました。奇跡による治癒を期待したからです。ところが、イエスはわざと遅れて行きました。はたしてラザロは亡くなりました。姉妹は悲しみに暮れて、イエスに愚痴をこぼしました。「もう少し早く来てくだされば(…助かったかもしれません)」と。ところが、イエスは意外な返事をされます。「ラザロが死んだのはよかった。あなたが信じるようになるためである」。さらに「もし信じるなら、神の栄光が見られる」と言われました。その言葉通り、ラザロを復活させました。これを見て、多くの人が信じるようになりました。

 ヨハネは、この出来事に先立って同じ教えを9章に記しています。弟子はイエスに尋ねます。「この人が生まれつき盲人なのは、本人の罪のせいですか、それとも親の罪のせいですか?」イエスは真逆のことを教えます。「神の業がこの人に現われるためである」。そして、イエスは神業(奇跡)で盲人を癒しました。このように、神の計画は人間の計画とは違います。ある時は「わるいもの」に思えることを通して「よいこと」を実現されます。人類の救いも十字架という敗北を通して死に打ち勝ち、罪から解放されるのです。つまり、神の全能は悪から善を導き出すことができるのです。

 同じ教えが旧約聖書のヨブ記で預言されています。有名な言葉です。「神は惜しみなく与え、惜しみなく奪う。神に感謝」。ヨブは全財産を失い、友を失い、いのち一つになります。それでも神を呪うことをしませんでした。無一物で生まれた自分が元に戻っただけだと思ったのでしょう。「よいものを受けたのなら、悪いものも受け取るべきではないか」と答えています。私たちは裕福が幸せで、貧乏が不幸だと思いがちです。与えられたら幸せで、奪われたら不幸だと感じます。でも、そうではありません。「よいもの」に心を奪われて神を忘れたら不幸です。「わるいもの」と感じても信じるなら、そこから神の恵みが現れます。罪以外の「わるいもの」は、実はすべて「よいもの」とつながっています。だから、神に文句を言わず、信じましょう。肯定的な態度で向き合うこと自体が「感謝」を示すことになるでしょう。■
*2023/03/26 ミサ説教(文責:小寺神父)

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